昭和40年11月28日 朝の御理解
笑われても悪口を言われても僻みもせず、それでくじける言わば事無くおかげを頂いて、成程神様じゃなあ成程神様じゃなあと、こう言われる様なおかげを頂きたいと思う。笑われまい悪口を言われまい、そこにはどうしても人間心が先に出る。賢うなろう賢うなろうと悪口を言われてはならん、悪口を言われてはならんと云うとどうしても自分をよく見せようと致しましたり、自分がよく言われ自分が悪く言われない為に。
人を悪く見たり又人を陥れたりする様な結果にすらなり兼ねない。私は間違いない私は立派だ、果たして本当にそう立派であるかと間違いがないかと云う事はない。人が笑うている以上に人が悪口を言うておる以上に、自分の内容というものを検討さして貰うたらそれ以上のものけれどもそこの所にです、私共が例えば笑われたからというてです。悪口を言われたからというてです。
僻みもせぬくじけもせんと、なるほど神様じゃなあ成程神様じゃなあと、こう言われる様なおかげを頂くという事はです。これは矢張り自分というものが、空しゅうされなければ出来る事ではない。そういう中にしか、神様の本当の働きというものは開けんのじゃないかと私は思う。これは私共、信心を進めて参りました、五十五年の事を、振り返して頂いてもそうである。
本当に自分の目の前で笑われ、目の前で悪口を言われ、それをわざわざ赤面弁慶になって言い訳しようともせず、言わば神様だけが御承知の世界に、生き抜く事が信心だと信念さして貰い、私が詰りませんから皆んなが笑うておる。私が至りませんから皆んなが悪口を言うておる。そういう中に例えば十五年間、おかげを頂かして貰うて笑われる所もありましょう、悪口を言われる所もありましょうけれども。
それ以下の事を思うてみると、成程神様じゃなあ、成程神様の働きというものは、素晴らしいもんじゃなあという様な事をです、段々見て貰い分かって貰う人には、分かって貰えて来ておるという事実を思うて、これから先とても同じ事。どうでしょう。私が自分の顔を立てる為に、自分が自分を賢い者にする為に、言い訳をしたりして参りましたら、おかげを現在のおかげは頂けないと私は思う。
そこにはどうでも、例えば人が笑うても、悪口を言うても神様のお心とか、神様のお言葉には、言わば背かれませんと、誰が何と言うても、神様のおぼし召しを曲げる事はでけません、という一途の思いというものがなからなければ出来る事ではない。そこに神様一途というか、神様を中心に申し上げた生活、それは馬鹿と言われても、悪口を言われてもその為に、僻む事もなからなければ、この為にくじけるという事もない。
只神様の御神意のままに動いておる、自分という事だけが有難い。そこに初めて、成程神様じゃなあと言われる程の、おかげが頂けるのじゃないかと私は思う。皆さんの一身上の上にも家庭の上におきましてもです、成程場合に依っては笑う人があるかも知れません。それをいうならば、あれは馬鹿じゃなかろか、阿呆じゃないかと言われながらも、矢張り馬鹿と阿呆で道が開けて来るのであり、悪口を言われながらもです。
神様の仰せには背かれませんという生き方、そこには皆んなが成程信心ちゃ有難いもんだなあと、成程神様じゃなあと云う様なおかげが開けて来る。そのおかげが開けて来なければ駄目。そこには神様の顔も立ち、神様が成程私共の顔を立てて下さる、というおかげが受けられる。そこんところを、無気になって賢う見られたい、無気になって私が悪いのじゃない、悪口を言われまいとして。
そこに人間心を使って行くと云う様な心の中にはです、確かに神様の働きを頂くことはでけません。馬鹿と言われたり、悪口を言われたりすると、人間が悪賢うなる。すねる様になる僻む様になる。是は信心のない者は、いうなら得手してそう云う様な傾向があるのです。所が信心さして頂く者は只神様だけを信じての生活で有、神様が右と仰るから右を歩いておるだけの事、左と仰るから左を歩いておるだけの事。
ありゃ馬鹿じゃある右を歩いておる、あれは人非人ではなかじゃろか左を歩いておる。例えばです言われる様な場合もありましょう。けれどもです、確かに私共は人非人の自覚、人非人というのは、あれは人間の面はしとるけれども人間じゃない、とこういう様な悪口の時に使う言葉なんですけども、私共はそこを本当に人間を卒業して行こうとする、人間の姿はしておるけれども内容は仏様であろうか神様であろうか。
菩薩様であろうかと言われる様な、在り方になって行く事なのですからね、信心とは。ですから人非人と言われて腹が立つとか、人非人と言われて、自分を人非人ではないというふうに言い訳をする所には、信心の向上はひとつもない。もしそれにすねたり僻んだりするなら、もういよいよ詰らん。自分を賢い者にしようと、赤面弁慶になってから言い訳してでも、私が悪いとじゃないですよと、いう事を言い張ろうとすると。
そういう働きの中にはそういう心の状態の中にはです、神様が一番お働き難い事の結果にしかなって来ないです。成程二代金光様が、福岡の吉木先生に、馬鹿と阿呆で道を開けと仰った訳が分かる。そして本当に福岡の吉木先生は、馬鹿じゃったの阿呆じゃったの、と言う者は誰ぁれもいないでしょうが。成程神様じゃなあと、言われる様なおかげが現れておるし、人間は本当に、目先目先の事しか分かりません。
先の事知っとられるのは神様だけ。それは私共でも分からん。けれども神様がそういう私共の上にです、お働き下さっておるという事を信じ切るのを信心。 だから馬鹿と言われても腹も立たん、悪口を言われても、神様が今に顔を立てて下さるんだと確信する事が出来る。そういう生活。信心は偉くなる為でもない。賢うなる為でもない。只有難うならして頂く稽古と言われるのもその事。
皆さん本当に有難くなるという事は、ある意味では馬鹿と阿呆になる事だと思うです。でなかったら有難いと云う心許されませんものね。叩かれて強うなれ、笑われて賢うなれとも仰る。本当に自分というものを見極めさして頂く時に、成程笑われる筈だと、いうものが人が笑っておる、他の所に自分が笑われるものがある。それで、私共がひとつの信条としてです、よし例え人から笑われてもです。
神様から笑われる様な事があっちゃならんと云う、思い込みを持たなきゃならんという事。それを人から笑われちゃならん、人から笑われちゃならんと、思うから嘘を言うたり自分の顔を良くしたりする様な事をするから、神様の働きがぴしゃっとそこで止まって仕舞う。神様の働きはもう限りなく限りなく、頂かして頂く為にです、人から笑われても悪口を言われてもいいんだと。
これは私の十五年間の事を、皆さんが知っとられる方はひとつ、思い起こして下さればいいでしょうが。笑われても、もうそれこそ、そげなえげつない悪口を言われんならんなら。ちょっと辛抱がでけんと言う様な事もあるんですけれども、けれども神様が御承知なのだから、笑われながら悪口を言われながら、やっぱ段々成程椛目は違うなあと、成程神様じゃなあ成程神様じゃなあと、いう場の方が段々広うなって行きよる。
それは私がです、それはもう誰でもです、この人からだけは笑われたくない、この人からだけは悪口を言われたくない、という様な場合もありますよ。けれどもこの人達からよし例え、笑われても悪口を言われても、しかし神様から笑われちゃならんと言う、ひとつの思い込みというものがあったから、ここ十五年間、いうなら信心辛抱がでけてきたのですよ。皆さんどうぞ椛目に通うて信心の稽古をなさるならです。
人は笑ったっちゃ悪口言うたっちゃよか、神様からだけは、笑われちゃならんね。神様からは笑われちゃならんと言う、人の顔も立てよう神様の方の顔も立てよう、そんな事出来やしません。やっぱり神様の顔を立て抜いて行かにゃならん。そこに神様が又人の顔を立てて下さる、馬鹿と言いよった人が、成程やなあとその人の世話にならん、ならんと言うとは可笑しいですけどもね。
その人にいうなら縋らなければならん様な結果にすらなって来る。馬鹿と言いよった人が、悪口いよった人が、やっぱあんたでなからにゃでけんと、云う様にすらなって来るのですよ。だから本当言うたら信心さして頂きながら、その教えを行じさせて頂きながら、笑われる様な事が起こって来れば来る程、悪口を言われる様な事が起こってくれば来る程、実を言うたら神様の働きを、もういよいよ頂いて居る時だと、先ず分かって間違い無いと私は思いますね。
御造営の事でもそうで御座いましょうが、信心の無い人達が笑うておった、あげん高々と土を盛ったり、あげんその大体何がでけるじゃろかと言われる位に地表をしっかりしたり、そうしよったら住宅の方が、言わば本当に小さい柱が沢山立ってから、ちょいと大体何が建つとじゃろかと云うてから、近所の者が笑っておったという事である。ところがあの堂々たる、いうなら鉄骨がでけてきた。
そしたら皆んなやっぱりどうして神様じゃあるばいち、言うてから見直してきた。所が今度その愈々その鉄骨がです、又笑われなければならない事が起こって来よるという事です、昨日委員長と高橋さんと毎日ここ毎日御用さして頂来よる。所がですねあの鉄骨の一番大広前のですね、鉄骨があんまり重量が重いもんですからね、こうやって曲がって来よるとです。けども私は本当に昨日ばかりは有難いなあと思ったです。
本当に何という設計のミスだろうかといった様なこと、何時も聞いたり実際見たりもして来るですけども、それがひとつひとつ、こと前におかげ頂いて来るという事も有難いけれどもです、あれが本当張ってしもうとったら分からなかった。丁度あの長い鉄骨がですね、一寸下がってる中心が。それが肉眼じゃ分からん位だけれども、実際計って見ると一寸こう下がってる。
けれどもそれが本当に、事前にです、あれが秋永先生達が、昨日は来てなかったらどういうことになるじゃろうか。今下さを何か張ってるか何かしてるでしょう、張ったら分からん。さあ上に瓦が乗ってから、中からこうやって、下がをる事に結果に成ったかも知れんけれども、そのおかげでですよ、又そんなら今度素人が、今度それを見たならちょいと馬鹿じゃあるち言うでしょうね。
笑われるかも知れませんけれども、ね。所が事前に気付かせて頂いて分からせて頂いてです、今度は、愈々それが又、頑丈なものになる事だけは間違いないですよね。あれが例えば、もう御普請が出来上がってから、段々この中の梁と言うですかね、鉄骨がこう下へ下がる様な事にでもなったら、大変な事だったんですけれども、何とはなしにあぁしてぐずぐずして暇のいっておる内にです、そう言う事も分からせて貰う。
ですからそれが又愈々頑丈な、昨日その事古屋さんに夕べ遅うまでおられましたけれども、それから古屋さんの所へ尋ねて行っとられます。昨日正義さんが来ましてから、銅板の事である金物屋さんに行ったそしたらやっぱし、椛目の事が評判になっとった。そしてそこで何処々の何々と言う設計屋さんというでしょうかね、職人さんが見えてからもうちょいと、椛目ん奴どんばかりは馬鹿じゃあるち言うてから笑いよった。
先生そげん言うてから笑いよるそうですよて言うてから昨日秋永先生が言うです。今日正義さんが聞いて来た。成程笑いよるかも知れんなあけれども何処に神様の御都合があるか分からんから、笑われてもそりゃいいじゃないかて私が、何を笑いよるかと云うとですね高良山杉と云う高良山杉を買うてるですね、百万近くも出してから買うて、しかもこの暑い盛りにあれ買うて早くわいて枯らかしとこと云うのじゃないけれども。
今にいろんな事情でそれが涌かれんでおる訳です。ですからもう本当にそれが聞き知った人がですね。もう本当に椛目ん奴どんな馬鹿じゃある、馬鹿ばっかり揃うとるじゃろと言うごたる風に、ほんなこて総代の顔なかごと言って笑いよったそうです。総代は大体何しとるじゃろかて言うて笑いよったち。そうでしょうね。この頃はこの内殿をされる大工さん、それ言われましたですもん。
もう心から言われましたです。高良山杉のこういう素晴らしい銘木はですね、あの赤身ですから。これはいよいよ普通の木よりも乾きませんて。だからいっちょどうでん早うなさらにゃいかんですよ。一日でん早う涌きなさらにゃいかんですよち言うて何ヵ月か放からかしたなりですからね。成程矢張り笑われるに違いないけれども、私は神様の御神意があっての事だと思うです。
成程神様じゃなあと言われる様なおかげを頂く為だと私は思うです。だから放うからかしなりしとってよいと言う訳ではないですけれどもです、こげん言うてその笑いよるという事を聞かせて頂いてからです、その笑われるから、さぁしっかりせにゃという様な気持ちもせん。神様の御都合に違いはなく、過去の体験からその事を思う事がでけるのである。そして結果に於いては。
成程神様じゃなぁと言われる様な、おかげが頂けるもんだと私は思うておる。これは御造営の事についてで御座いますけれども、お互い銘々の上にでも神様のお働きを充分に頂きたいと思うならです、どうぞひとつ人から笑われてもいい、どういう専門家が笑うてもいいです、例えばその御造営の場合でも、ほら見事じゃある。ほら素晴らしい専門家が褒め讃えておっても素人の使うものが、使い勝手が悪かったらどう致します。
そうでしょうが。例えば(?)ひとつの事でもそうです。甘木の教会飯塚の教会そうでしょうが、それは見事です、けれども実際あちらへ行ってみてから、言わば死に部屋の、死に部屋と云ったらおかしいけれども、可笑しい所がばさらかあるです。御本部の御造営だってそうでしょうが。そりゃもうマンモス会堂として世の中の人の目を引く程の立派なものがでけたんだけれども、実際使うてみら使い勝手が悪いのです。
一番そのが二階ですたい。先生方のお部屋がずっとある。お装束付けるとこ、あすこなんかです。とに角コンクリートの上にゴザ敷かんならんそうですよ。装束付ける時には、それから皆さんが一番、分かるのはあの地下室の荷物置き場から便所あるとこです。あの便所でつかえとった事がないですね。あの広々とした便所が何人かしか入っとらんでしょう。しかも御大祭の時がそうですうよ。
あれ広大な荷物置き場がどうでしょうか。誰も頂けとる人がないでしょうが。御大祭の時ですらそうでしょうが。そりゃもう専門家が見たり素人が見たりすりゃ素晴らしいのだけれども、実際その使う者になってみたら使い勝手の悪いものしかでけていないという事。椛目の場合、成程そこがいけなかった為に柱を切ったり傷が入ったり、曲がったとこは修繕したり、例えばするでしょうけれども。
見よってご覧なさい、それは必ずそれは丁度現在の椛目のお広前の様に、使い勝手の良い事になって来るでしょうね。例えばここのお広前の事だって、成程神様じゃなあ、成程神様が設計なさったんじゃなあというような事があるでしょうが。昨日も住宅部分のところを、秋永先生が言うとりましたが、それも私が昨日そこんところ気が付いた。これは良か方のとこです。屋根壊したでしょう。
例えていうならこちらが一尺出とる屋根が、こちらの方は八寸しか出とらんから見てとてもおかしいです。ところがその下にベランダがこうやって出来る事になったもんですから、その調和がピチッととれて、どげな名設計士でんあげな風には、初めらしきりめて云うてから秋永先生は言うとります。ミスであった所を生かす。それは私共がこれは私の根本的精神がです。
人間から笑われたっちゃ、神様から笑われちゃならんと言う様な信心が、そういう様なおかげを生みなして行きよるのじゃないだろうかと私は思います。みかげだけがよいのじゃない、本当に実際その家に住まわせて貰うて、使い勝手の良いという事が、私は一番焦点でなからにゃいかんと思うのですたいね。だから皆さんが、あちらに御用においでられたり、見においでられたりしてですね。
又その一部の悪口を聞いてですたい、どうしたこっちゃろか腹かくこつもなぁもいらんです。だからそれが気になるなら心配なるなら、その為に皆さんが一修行なさる気持ちになりゃいいです。御神意のままに、神様のお働きの侭にひとつ、御成就になります事を願わせて貰い、その瞬間に於いてはです、よし笑われてもです、言うなら悪口を言われてもいいです。総代なんかの場合そうですたい。
結局椛目の笑う時には総代だん、何しよるじゃろかとこういう事になるのでしょうよね。矢張り、けれどもそげなこつ言うたからと、腹かく事いらんでしょうが。それこそ細工は粒々仕上げをごろうじろと言う、これは神様の言葉からいうてね。私共は何にもでけんのですから、為には信心に疎かな事があっちゃならん。成程椛目じゃなあという時に、総代さん方の顔も又神様が立てて下さる事にも、私しゃなる事を確信致します。
昨日の例えば、そういうミスを発見したと云う事なんかでも、本当に神乍な事だと思うですよ。あれだけの立派な堂々たる鉄骨がです中心になる、言わばこれがこう下がっておると言う、あれほっときゃ勿論下がるだろ。あれ天井でも張ったり、屋根でも上がったりしてから気が付いたってもう遅い。神様はそこん所をです、色んな事を恐らく私しゃ古屋さんでもです。
そりゃもう本当に私しの設計のミスじゃったとは、口では言われんけれども心じゃ是はしっかりせにゃいかんなあと、位は思いなさりゃせんじゃろかと、思うて貰うて貰わんならいいけれどもと思うですね。私は。本当にお互いが、分かる所は分からせて貰うて、それは自分のつには間違いなかといった様にです、自分の顔ばようしようとばぁかり総代さん達もそう。
総代の顔ばようしようとばぁかり思いよると、ほんなもんは出来上りゃしません。馬鹿ち言われたっちゃよか、悪口言われたっちゃかんまん、これをひとつやり抜かせて頂かにゃという信念の元にです、これは御造営の事に又なりますけども、そういう気持ちで総代さん方を始、皆んながおかげを頂きなさらにゃならんとこう思うですね。
どうぞ。